妾馬（めかうま）-八五郎出世-

お妾さんになった妹のお陰で、侍になって馬にまたがって……ということで、タイトルは「妾馬」ってんでしょう。このセンス、凄くないですか？　なかなかここまで飛躍できません。とはいえ、落語の演題は略語がよく用いられます。船頭の徳兵衛で「船徳」とか、富くじを買った久兵衛で「富久」とかですね。この言葉を記号化する発想はむしろ江戸よりも現代的な感じがします。女子高生に限らず、現代人は何でも言葉を短くします。木村拓哉は「キムタク」だし、ブリリアント・グリーンは「ブリグリ」で、ばりばり３本立ってるは「バリサン」です。この前後をはしおって短くする語法は、気の短い江戸っ子が好んで用いていました。あたりめぇだぁ、べらぼうめ！　は、「あたぼう」となります。圓生はよく高座で、バカに旨いねぇ「ばかうま」だと云ってました。もう最近では「ばかうま」なんて言葉使わないでしょうか？　私の子供の頃は、まだ日常的に使っていました。おそらく圓生が流行らせた言葉です。 　そんな演題の「妾馬」ですが、ＮＨＫの放送コードには引っかかりました。放送コードってことは、表現が不適切であるということなんですが、そんなこと云い出したらば、落語には「不適切｣｢不謹慎」な噺はいくらでもあるんですがね。当時のラジオやテレビでは、バンバン放送されていたという噺も聞きますから、おそらく70年代以降に改めて自粛対称になったんじゃないかと思います。とにかく事情は知りませんが、ＮＨＫでは「妾馬」という演題は使用されず、「八五郎出世」と改題されました。 　そもそも、この演目は後半がグダグダなことで知られています。面白いのは、がさつな兄貴が生まれて初めてお城なんざに行き、殿様の前でもありのままでいるところ。そして殿様、家臣、八っあんの３人が繰り広げるドタバタが愉快なのであって、それ以降は第二部といった風で、噺の方向も雰囲気も変わってしまいます。そのため名人たちは「品川心中」同様、「妾馬」の後半もバッサリ切り捨て、八五郎が殿様に召し抱えられるところで、ハッピーエンドとなります。 　ですから、「妾馬」といっても馬が登場しないので、実は「八五郎出世」とする方がより演目にはふさわしい演題となります。知らなければ、なんで「妾馬」なんだろう？　と混乱を招くだけですから。

大名が通るとと皆、土下座しますよね。あれはあくまで地方のあぜ道などの場合です。江戸は天下のお膝元。いちいち大名が来たからといって土下座はしません。頭を下げる程度。そんな訳で殿様が移動中に長屋の美人を見初めるということがありました。お鶴もそんなわけで奉公にあがり、そして妊娠、男子出産となれば、いきなり奥方様へと大出世。いわゆる玉の輿に乗るというやつです。そんなある日、お鶴の兄、八五郎は大家に呼び出されます。何事かと来てみれば、妹が出世して、殿のお目通りに適ったといいます。世間知らずの八五郎は、御前での振る舞いも分からなければ、来て行く着物もないとうい有様。けれど人の好い大家は、一生懸命に世話をして、八五郎を送り出します。家来にしてもらえるかもしれないからです。いざ、御前で八五郎は天然ボケをかまし、それが幸いして殿様に気に入られ、めでたく家来となりました。長屋に凱旋帰宅するほですが、家来となっても失敗だらけ、馬に乗ったらばそれも制することが出来ず大暴走。やっと馬術の師匠に止めてもらいます。 「そんなに急いでどこへ行く？」 「前へまわって馬に聞いてくれ」

五街道雲助の「妾馬」完演版を見たことがあります。童顔なのにダミ声という雲助は人気のある噺家ですが、そのダミ声が十二分に生かしきれていない気がします。メリハリがないんですね。確かに八五郎のキャラにはしっくりきていると思います。または家臣の田中三太夫の役もバッチリです。それなのに、なんかたるいのはやはりメリハリがなかったからじゃないでしょうか。 　けれど、キャラがハマるというのは、実はとても大事な要素なんです。落語家本人が持っているパーソナリティと演じる役柄とが噛み合うと、客はその噺に引き込まれます。志ん朝の若旦那は比類なきものがありますし、志ん生の粗忽者は地なのか芸なのかわかりません。圓生は何をやっても巧いんですが、殿様には妙な説得力があります。 　志ん生は指先のしなやかな動きが特徴的です。その仕草は女性を演じる時に抜群の効果を発揮したりします。人物を演じるとき、細やかな動きによる演技がどれほど大きな意味を持つかは、「野ざらし」における談志の釣竿を振る仕草などにも見てとれます。 　けれどそういった技巧を凝らさなくても、落語家のキャラにあった演目をやれば、十二分に客を噺の世界に誘うことができます。だから、好きな噺や、ただやりたい噺をやるのではなく、今の自分にあった噺を選ぶセンスも必要になるわけですね。前述の「野ざらし」なんてのは、人気の高い、楽しい演目ですから、多くの演じ手がいます。けれど、この噺ほどハズした時のリスクが大きい演目もありません。

五代目古今亭志ん生の「妾馬」が好きという人がたくさんいます。八五郎のがさつで、厚かましく、それでいてお人好しで、家族想いなキャラは、この演目を名作とたらしめている要因で、さらに志ん生の八五郎は相当にずっこけています。山田洋次監督はこの八五郎から「男はつらいよ」の車寅次郎を創作したという説もあるくらいです。真偽のほどは知りませんが。終始ドタバタの「妾馬」は志ん生の真骨頂です。 　志ん生の「妾馬」は人気の高い演目だったため高座にもよくかけていたようですが、息子の金原亭馬生とリレー形式で演じた音源がコロンビア・レコードからリリースされています。リレーであるにもかかわらず、やはりここでも完演はされません。八五郎が屋敷に着いたところで志ん生へバトンタッチされます。けれどリレー落語ってどーいう効果があるんですかね？　志ん生は金馬とのリレー落語も２席ほど残っています。当時人気の爆笑派が並んでいるという価値はあるんですが、落語としてはどーなんでしょうか？　ただ、志ん生、馬生、志ん朝の親子３人リレーというのが昔あったそうで、その時もっとも優れていたのが最年少の志ん朝だったそうで、これだけは聴いてみたいなと思っていたりします。 　歌い口調の馬生は、まさに志ん生と志ん朝の中間のような芸風で、その口調がなによりも魅力です。志ん生、馬生、志ん朝の親子は、皆大名人ですが、三者三様、誰も芸がかぶっていません。天才が三人いるわけです。風貌も口調もそれぞれが異なる魅力を見せています。それでも、うんと細かい処を聞いていくと、時々、声質に似た感じの箇所を聞いてとることができます。ほんとに一瞬なんですが。それでも親子であるといことに気がつけないほどに、それぞれのスタイルを見出したことが東京の落語の財産となっているわけです。

「妾馬」にさらに涙を取り入れた圓生の型は、この演目を完全無比なものにしました。市販されている音源の多くが「八五郎出世」となっているので、おそらく圓生がこの演題を使い始めたのではないでしょうか。圓生の型は殿様が妹のお鶴を見初めるところから始まります。実は、この長尺版は速記本で読んだだけで、まだ聞いたことないんですが、このプロローグがあることで、この演目が１本の映画のように見えます。そしてクライマックス、部屋の片隅にいる妹のお鶴を見つけてから、孫を抱きたいと適わぬ夢をみる母親のことなどを独白します。ドタバタに涙。これは大船喜劇とよばれる松竹映画でよく見られた典型です。そのひとつである「男はつらいよ」がこの演目から生まれたという説があるのも、この圓生の型があればこそではないかと思います。圓生が名人たる所以は、ここで聞ける確かな表現力と構成力によるものです。 　音源がリリースされていないため、聞いたことはないのですが、志ん朝もこの演目は「八五郎出世」として、父、志ん生の型ではなく、圓生の型で演じていたようです。 　ちなみに圓生だけが「鶴の一声で八五郎が出世した」とサゲ風の地口で終わらせています。サゲにはなりきれてませんが私は好きです。

で、おまけといってはなんですが、立川志の輔も「八五郎出世」をやっています。こちらは、とにかく端折りまくりのドタバタ劇。八五郎が呼び出されて大家のとこに来た冒頭にギャグを固めています。志ん生でもなく、もちろん圓生でもなく、ひたすら我流で暴走していきます。そして、なんと志の輔の型で、八五郎は出世しません。それがサゲ。落語ファンにしか分からない、楽屋落ち的なサゲです。 　馬の登場しない志ん生の「妾馬」はいいとしても、出世しない志の輔の「八五郎出世」というのはエライことだなぁと思いました。